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本学の校歌は、1987(昭和62)年4月23日に発表されました。作詞は本学卒業生でもあり、本学文学部国文学国語学科教授の今西實氏、作曲は團伊玖磨氏です。作成に至った経緯は、「忘れもしない1986(昭和61)年「天理教教祖百年祭」の慶祝時に、学生団体の「応援部(団)」より、他大学とのエール交換の際に「校歌」が無くて困っているので何とか配慮願えないかということであった。早速、山田忠一学長と相談したところ、是非検討するよう指示されたので、すぐさま全教職員・学生に作詞の公募をしたところ適当なものが無く、やむなく私の“心友”であった当時の教務部長・今西實教授にお願いした。それが出来上がった時点で作曲をどうするかということになり、学長より三代真柱にお願いして「團 伊玖磨」氏の作曲で「校歌」が完成」(『ふるさと会報』第61号、藤善尚憲「天理大学での思い出」)したとあります。 今西氏によると「詞の一番では、学生の本分でもあり、最高学府としての使命でもある真理の探究を表現したかった。二番は、広い世界に雄飛する建学の精神を考えて作った」(『天理時報』1987年5月3日)と、本学校歌の歌詞に込められた思いを語っています。 校歌に関する記事は以下の刊行物にも掲載されています。・『天理時報』3013号 天理教道友社 1987年5月3日・『天理大学広報』100号/101号 天理大学 1987年4月6日/1987年5月30日  ・『ふるさと会報』第34号/第61号 天理大学ふるさと会 1987年11月26日/2014年8月26日・『天理大学80年の軌跡』63p 天理大学80年小史編纂委員会編 2006年3月26日 校歌の視聴はこちら(天理大学ふるさと会ホームページ) 学歌 本学の前身である天理外国語学校時代から校歌はなく、1926(大正15)年10月28日におこなわれた校舎(現1号棟)落成式では、天理唱歌が歌われました。また、卒業式においても天理外国語学校第1回(1928年3月)から第5回卒業式(1932年3月)までは、同じく天理唱歌を斉唱しています。1932(昭和7)年に天理教青年会々歌が制定され、翌年3月におこなわれた天理外国語学校第6回並びに天理女子学院第5回卒業式からは式での斉唱に同歌を歌うようになります。第10回卒業式(1937年3月)からはそれに加え、天理教婦人会歌も歌われるようになりました。その後は再び、天理唱歌が歌われる年もありました。 2018(平成30)年10月1日、天理教青年会々歌が本学学歌として新たに制定され、入学式の式典やクラブの試合などでも学歌が歌われています。 学歌の視聴はこちら(天理大学ホームページ)  逍遥歌・応援歌 逍遙歌、応援歌ともに1951(昭和26)年頃に作成されました。歌詞を一般から募集し、同年6月23日におこなわれた大学開学3周年記念の芸能祭にて歌詞の当選発表がおこなわれました。同年7月1日の『天理時報』には「天理大学自治会」名で「天理大学学生歌選内佳作当選者」が掲載されています。▼学生歌/天理高校教官 高畠良雄▼逍遙歌/丹波市町豊田天理学寮北寮 山本三千夫▼応援歌/長野県岡谷曲区内花岡 山岡羊村▼選外佳作/二名(氏名略) このうち、学生歌については資料がなく、その後も歌われていた形跡がないため最終的に完成しなかったとみられます。逍遙歌の作詞者である山本三千夫氏は、三島ふるさと寮寮歌の作詞も手がけています。 さて、応援歌の詞に当選した人物は「山岡羊村」とありますが、本学刊行物に掲載されている作詞者名は「山田羊村」と印字されています。1960年度から毎年刊行されている学生便覧や、『天理大学五十年誌』にも「山田羊村」とあります。山岡羊村氏は、1907(明治40)年に長野県岡谷市(旧諏訪郡平野村)に生まれ、本名を山岡勝人といい、教諭として小学校で教鞭をとりながら、山岡羊村名ほかいくつものペンネームで小説の執筆や懸賞歌謡への応募を重ね、「大政翼賛の歌」のほか数多くの作詞を手がけ、岡谷市内の学校校歌も作詞しています。また、この「天理大学学生歌」の当選が掲載された一ヶ月前である6月3日の『天理時報』では、第二回懸賞募集「天理讃歌人選発表」で、山岡勝人名義で三等に選ばれています。これらの経緯から、おそらく本学応援歌の正しい作詞者名は「山田羊村」ではなく「山岡羊村」であると考えられ、何らかの手違いで「山田羊村」と誤植されたものが、現在まで引き継がれていると推察できます。 作曲については、「朝比奈隆氏—関西交響楽団指揮者—があたる」と『天理時報』に記載されていることから、歌詞の当選発表がおこなわれた時点ではまだ作曲はされておらず、朝比奈氏に作曲を依頼する予定であったようです。なお、朝比奈氏は1949(昭和24)年4月18日の天理教教祖誕生祭奉祝と天理教館改造のこけら落としを兼ねた音楽と舞踏の大会にて、関西交響楽団による甘露台讃歌の演奏指揮をとり、また1951年度の本学集中講義で、教養課程の音楽を担当しているなどの関わりがありました。しかし、実際に本学逍遙歌、応援歌の作曲者とされているのは尾西勝氏で、両曲ともに朝比奈氏の作曲ではありません。尾西勝氏は、大阪府箕面市内で教諭をつとめ、同市内外の校歌や箕面市歌の作曲を手がけています。本学両曲の作曲者である尾西氏は、同氏のことであると思われますが、どのような由縁で尾西氏の作曲となったのかは不明です。 1993(平成5)年に応援団団長をつとめていた卒業生によると、応援歌は体育系クラブの試合応援にて、最初に歌う歌でした。これは、応援団が演舞とともに歌うので、応援団以外の学生は、全くといっていいほど応援歌を知らなかったといいます。また、チアリーダーに所属していた1998(平成10)年の卒業生によると、この応援歌は第1応援歌と呼ばれ、第2、第3応援歌もありました。第1以外は出番は少ないながら、3曲の応援歌を披露することもありました。しかし、口伝で後輩へと伝えられたため、音源が残っておらず、現在では第2・第3応援歌は聴くことができません。その他の曲についても、練習中はテープなどを流さず、先輩の歌に合わせて、練習していたそうです。応援団の活動休止とともに、応援歌はあまり歌われなくなり、現在では聴いたことがないという学生のほうが多くなっています。逍遙歌は、現在に至るまで様々な場面で歌い継がれています。新入生歓迎会、学科会の幹部交代式、卒業生送別会など、また卒業後の同窓会においても歌われるなど、何らかの機会があるごとにその場の締めの歌として、学生らが輪になって逍遙歌を皆で歌います。卒業して何十年たっても歌える、口ずさむという卒業生も多くいます。 例えば、1969(昭和44)年、学生自治会では、各種催しや何か機会がある度に皆で逍遙歌を歌った。1984(昭和59)年、様々な集会で最後は必ず円になって肩を組み、応援団が中央に出て、逍遙歌を大声で皆で歌った。と当時の自治会(心光会)総務委員長が回想しています。 逍遥歌の視聴はこちら(天理大学ふるさと会ホームページ) 応援歌の視聴はこちら(天理大学ふるさと会ホームページ) 1951年第3回芸能祭パンフレット。右端のプログラム内に「学生歌当選者発表」と太字で書かれている 天理大学応援歌 天大節 天大節の誕生についての詳細はわかっていませんが、1966(昭和41)年の天理大学祭にて応援団が応援歌などと合わせて天大節を披露していること、また同年から1970(昭和45)年3月まで杣之内ふるさと寮で暮らした卒業生が、学生当時、寮生であった応援団員たちが作製したと聞いた記憶があることから、この頃に作製されたことに間違いはないようです。1971(昭和46)年の第8回リーダーズキャンプにて配られた歌集の中にも掲載されています。歌を聴くと、応援団らしいかけ声が挿入されていたり、歌詞に「かわいあの娘のためならば何んでもくれてやるけれど 夢と希望と青春に命をかける俺たちよ」とあるなど、当時、応援団をつとめていた男子学生たちの面影を感じることができます。 「天大節」歌詞(第8回リーダーズキャンプ綴より) 天大節の視聴はこちら(天理大学ふるさと会ホームページ) 天理女子学院の歌 天理外国語学校には校歌はありませんでした。一方で、女子のみを収容した天理女子学院は、1928(昭和3)年に発足し、1935(昭和10)年からは校則を変更し、校舎も天理外国語学校とは離れますが、同じく同学院にも校歌はありませんでした。しかし1935年、同学院教頭であった奥村秀夫氏が「新生を謳ふ」と題した作詞をしています。校歌ではなかったようですが、「聖地の花と咲き出でて我が学院(まなびや)を開きなん」と歌詞にあるように、新たな女子学院の出発と発展を願い作成したものと思われます。1937(昭和12)年10月、奥村氏の出征に際し、女子学院の生徒らが「新生を謳ふ」を涙ながらに歌いながら見送ったと『天理大学五十年誌』は記しています。そして、この歌は「当時の男生徒の寮歌に匹敵するほど愛唱された」とあります。 1940(昭和15)年3月、天理女子学院は天理女子専門学校に改称されます。翌年、天理外国語学校及び天理女子専門学校ともに、文部省の発令を受け、学生自治会である心光会は、心光報国団を編成します。女子専門学校では、心光報国団隊々歌を作成します。この隊歌の歌詞には特科2年生の田中光子氏の詞が採択されました。なお、男子の天理外国語学校心光報国団の隊歌については資料が見つかっていません。 「新生を謳ふ」(天理女子学院『心光』創刊号より) 心光報国団隊々歌 天理外国語学校時代の応援歌 外語時代にも応援歌がありました。これは現在の天理大学応援歌ではありません。1934(昭和9)年11月、全国高専ラグビー大会大阪地区予選がおこなわれ、勝ち進んだラグビー部は、同月25日に日大専門部との準決勝戦を迎えます。これに勝利し決勝に進むことが決まると、翌26日に心光会(学生自治会)は、「蹴球部応援歌」をプリントにして全会員(全学生)に配布します。しかし、この応援歌がどのような歌詞、曲だったかは不明です。その後、同月29日には「蹴球部応援団」を結成し、12月1日に大阪高医との優勝戦に臨みます。そして応援団をはじめ在校生らの応援を受け、結果は優勝を勝ち取りました。翌年11月30日には、高専大会大阪奈良地区優勝戦がおこなわれました。この試合の応援にかけつけた女子学院生は、「ラグビー応援記」と題した中で 天地ゆらぎとどろくは勝どきあぐるときの声君が涙の感激に我に感謝の涙あり 仰げば遙か地場の空神の無言のほほゑみに御地場学園万歳を永遠に祝はんもろともに という詩を綴っています。これが応援歌の一節だったかもしれません。 先の応援団はラグビーの試合に際して結成されたもので、応援歌もその時限りのものだったようです。そして1939(昭和14)年に、各部と並んで応援団が誕生します。しかし、応援歌がなかったため、団長豊田博次氏、副団長久保田利秋氏、副団長田口一男氏の発案で歌詞を募集して応援歌を作ることになりました。最終的に団長である豊田氏の詩が選ばれ、天理中学音楽教授の今田義雄氏に作曲を依頼しました。同年6月19日の放課後、天理外国語学校講堂にて、今田義雄氏と同氏と旧知の仲で編曲を担当した大阪音楽学校教授天野氏を招待して、天理中学校ブラスバンドの演奏による応援団歌発表式がおこなわれました。華々しく発表された応援歌ですが、残念ながらどのような歌だったのか資料が残っていません。なお、このとき結成した応援団については、1940(昭和15)年2月、「応援部は本会々務運行上、庶務の監督下に置くことになり当部は消滅した」(『心光会誌』)とあり、1年で姿を消すこととなり、制作した応援歌も歌われなくなったのかもしれません。 時を知らせる音 本学のチャイムは、校歌の最初の10小節をアレンジしたメロディーが流れます。校歌が制定される以前は、「一般的なチャイム」(『ふるさと会報』63号)でした。そして、校歌制定を機に、意気高揚な独自のチャイムにしようという提案がもちあがり、学生部で知恵を集めて、2、3のメロディーを選出し、その中から当時の山田忠一学長と相談して決定したのが、現在まで使われているチャイムです。 外国語学校時代にはチャイムは無く、始業時間などを知らせるために、大太鼓が使われていました。この太鼓は、天理教教会本部神殿の西廊下に置かれ、朝夕のおつとめ1時間前を知らせる為に使用されていましたが、1929(昭和4)年4月28日、教会本部より外国語学校へ移され、同30日に「午前八時職員生徒参列ノ上玄関前ニ於テ御本部ヨリ頂戴ノ大太鼓打初式」(「日誌」)を行い、この日から外国語学校にて時を知らせる音として使用されるようになりました。(『道の友』昭和4年5月20日)太鼓の大きさは、直径が約121センチメートル(4尺)、長さが約136センチメートル(4尺5寸)という巨大な太鼓(資料によって若干大きさの表記が異なる)で、校舎(現1号棟)の玄関を入ってすぐの正面に据えてありました。 見た目や音に圧倒された思い出を、1932(昭和7)年3月の卒業生は次のように記しています。「入学して、一番に肝をつぶしたのは、校舎の中央入口正面に鎮座していた(中略)あの大太鼓の音でした。コンクリート建てのガラスが一斉に揺れ響き渡りました。たたき手は海軍上がりの赤ら顔の門衛氏でした。その赤ら顔が一段と赤くなってのたたき振りは今でも忘れられません」(『天理時報』1976年3月7日)かなり大きな音と振動が校舎中に響きわたっていたことが想像できます。また、太鼓の音を聞いて、来校していた客人が何事かとびっくりしていたという話も残っています。1932(昭和7)年には6月10日の時の記念日に正午の合図としても太鼓を打っており、このように、都度必要な場面で太鼓を打っていたようです。1935(昭和10)年頃には、「鳴らしてはいけません」と書いた紙が貼ってあったとあることから、いたずらに鳴らされることも多かったのかもしれません。太鼓の「堂々たる響きは、海外への活動の心を、ふるいたたせたもので、一つの名物として、当時の卒業生の心に深く刻み込まれたものであった」とあるように、外国語学校時代の卒業生の思い出話には必ずといっていいほど、太鼓の話題がもちあがっています。 1944(昭和19)年頃の入学試験中に学生に破られたのが原因で使用しなくなり、天理教教会本部に引き揚げられ、その後、天理教境内の東南端に吊り下げられていましたが、1955(昭和30)年に、天理プールスタンド上に移され、天理教の朝夕のおつとめ時間を知らせる寄せ太鼓として使用されていました。(『天理時報』1955年5月29日)なお、1946(昭和21)年9月8日に、授業の終始の合図としてベルが設置された(「昭和21年3月執務日誌」)とあり、それからしばらくはベルを使用していたとみられます。 天理外国語学校玄関に据えられた大太鼓(道友社提供) 天理プールに置かれた呼び太鼓(道友社提供) 寮歌(男子) 寮歌(のちの南寮寮歌)が生まれたきっかけは、1933(昭和8)年の夏におこなわれた庭球部のインターハイの前夜祭でした。「京大の大講堂に参加校が全部集まり、各校順番に自校の出場選手を紹介し合った。そして選手の紹介を終ると主将が音頭を取ってそれぞれ母校の寮歌を歌い、聴く他の全ての選手はこれを拍手で讃する、という次第での出来事だった。さて、困った。僕は(中略)最後に皆で歌うべき寮歌を、まだ残念ながら持っていないことに気づいていた。」(『杣之内ふるさと寮五十年誌』)このとき、天理教青年会々歌を歌ってその場をしのいだようですが、他校のようには寮歌を歌えなかった「言いようのない悲哀、誰に語り、誰に訴えたらよいか、或るもどかしさ」を抱えた中島正氏が、森下先生に相談して寮歌が誕生したとあります。なお、若井勲夫氏が「旧制高校寮歌の言葉と表現」で、明治時代は寮歌が校歌に相当する、寮生活は学校(旧制高校)生活であり、寮歌はその学校(旧制高校)の精神を象徴するものとして捉えられたと論じていますが、インターハイの前夜祭での寮歌の歌われ方をみると、その考え方は昭和初期においても受け継がれていたことがわかります。このように寮歌は寮だけのものではなく、学校全体を象徴する校歌のような存在として学生たちに愛唱されました。 さて、寮歌は当初2曲作られました。「平城の宮跡風麗」から始まる1曲と、「新月茲に南指す」から始まる1曲です。2曲とも作詞は中島正氏、「平城の宮跡風麗」の作曲は森下辰夫氏です。「新月茲に南指す」については、「当時の寮生山口良孝氏などが寮内でヴァイオリンを弾き、七高(旧制)の寮歌を口ずさみながら節づけしたものと記憶すると清田益雄氏は回想している。更にその後の寮生によって歌い続けられているうち、だんだんといつしか今日の寮歌の曲となったものと思われる」とあります。一方で「平城の宮跡風麗」の寮歌は自然と歌われなくなっていったようです。 その後、寮は杣之内ふるさと寮北寮、南寮と呼ばれ、「新月茲に南指す」は南寮寮歌として歌い継がれました。北寮では新たに1967(昭和42)年に、宮地幸雄氏作詞、松田元雄氏作曲の北寮寮歌(第一)、掘田利行氏作詞、松田元雄氏作曲の北寮寮歌(第二)が誕生しました。北寮寮歌第一、第二の作詞作曲者ともにすべて卒寮生です。北寮は1967年に天理教の伝道寮として建てられたので、南寮とは異なる性格を持っていました。初めての北寮入寮生たちは「寮歌は南北の寮が合同である」と教えられましたが、寮生活を過ごすうちに、独自の北寮寮歌を作ることになりました。(『ふるさと』3号)北寮寮歌(第一)の歌詞は、「一番では恵まれた環境での学問により自己の信念を見い出し、二、三番では「ぢば」の生活の中で己を陶冶し、四番にでは寮生活を謳歌し、最後五番では将来への飛躍を期す」(原文ママ)という構成になっています。また北寮寮歌(第二)は、「寮生としての自覚を、寮生の持つ意気を機会あるごとに、雄々しく又声高らかに歌われてこそ寮歌の意義がある」という気持ちを込めて作詞されました。(『ふるさと』3号) 寮歌(男子)の視聴はこちら(天理大学ふるさと会ホームページ) 杣之内ふるさと寮南寮寮歌 杣之内ふるさと北寮寮歌(第一)(第二) 寮歌(女子) 男子寮と同じく、女子寮も外国語学校時代から設置されていましたが、女子寮は幾度も場所や名称の変更が繰り返されました。現在、確認できる女子寮の寮歌は豊井ふるさと寮及び三島ふるさと寮の寮歌です。1963(昭和38)年に豊井ふるさと寮が開寮し、第32回卒業生(昭和59年3月卒)一同が作詞を手がけて、豊井ふるさと寮寮歌が誕生しました。作曲は北寮寮歌を作曲した松田元雄氏です。 1965(昭和40)年に誕生した三島ふるさと寮では、最初の入寮生たちが在学中に三島ふるさと寮の寮歌を作成しました。作詞は山本三千夫氏、作曲は佐藤孝子氏です。逍遙歌の作詞も手がける山本三千夫氏は、寮生の炊事を担当していたため、寮の雰囲気をよく知りつつ、それを詩に表現されたのでしょう。開寮20周年には、編曲して、寮生にて編成された「にわかコーラス団」による録音をおこない、先々まで寮歌が歌い継がれるよう、寮歌の保存もおこなわれました。(『想い出』)現在ではこれらの寮は閉寮しているため、両曲はかつての寮生たちの記憶の中に残っています。 寮歌(女子)の視聴はこちら(天理大学ふるさと会ホームページ)  三島ふるさと寮寮歌 豊井ふるさと寮寮歌 参考資料 吉川萬太郎編集兼発行『天理大学ふるさと会報』第61号 2014年8月26日/63号 2016年7月26日 『天理時報』1987年5月3日/1951年6月3日/1951年7月1日/1955年5月29日/1976年3月7日 日本著作権協議会 編『文化人名録』昭和32年版(6版) 山澤為次編『開校十年誌』1935年 天理大学五十年誌編纂委員会編 『天理大学五十年誌』1975 杣之内ふるさと寮五十年誌編集委員会編『天理学寮杣之内ふるさと寮』1976 天理学寮三島ふるさと寮三十周年寮祭実行委員会編集発行『想い出』1995年 天理教道友社『道の友』534号 1929年5月20日 天理外国語学校心光会『心光』6号 1935年10月1日/11号 1940年4月10日  天理女子学院文芸部『心光』創刊号 1935年12月 天理女子専門学校天理女子学院心光報国団編『心光』七号 1942年4月11日 昭和16年 天理女子学院綴 昭和26年度講義時間割表 昭和26年度「文書往復綴」天理大学 昭和12年度以降「心光会誌」天理外国語学校心光会 奥村秀夫『天理教教学史(前篇)』1970 昭和4年「日誌」天理外国語学校 若井勲夫「旧制高校寮歌の言葉と表現」『京都産業大学論集. 人文科学系列』巻 37 2007年3月 『ふるさと』3号 1967年3月15日 (年史編纂室 吉村綾子) 資料提供のお願い 本学に関係する資料や、またはそれに関する情報を継続して収集しています。 皆さまからのご連絡をお待ちしております。 詳しくはこちらをご覧ください(PDF)ダウンロード お問合せ先 関連リンク 天理大学百年史 2023.11.14国際学部外国語学科第32回関西ロシア語コンクール「上級部門」で第1位獲得 2023.11.22医療学部臨床検査学科育英西高等学校 体験実習 一覧へ戻る HOMEニュース歌【天理大学百年史コラム(28)】 教育情報の公表 お問い合わせ 資料請求 天理大学は公益財団法人大学基準協会の大学基準に適合していると認定されています 天理大学の自己点検・評価活動 > © 2014 Tenri University 杣之内キャンパス 〒632-8510 奈良県天理市杣之内町1050 体育学部キャンパス 〒632-0071 奈良県天理市田井庄町80 別所キャンパス 〒632-0018 奈良県天理市別所町80-1 受験生の方へ 在学生の方へ 保護者の方へ 卒業生の方へ 外国人留学生の方へ 高校教職員の方へ 企業・一般の方へ 採用情報 リンク プライバシーポリシー 人文学部 国際学部 体育学部 医療学部 大学院 天理大学について 入試情報 教育・研究 学生生活 キャリア・資格支援 国際体験 社会連携 まほろば募金 学校法人天理大学 自己点検・評価活動 採用情報 リンク プライバシーポリシー © 2014 Tenri University 入試情報 訪問者別 受験生の方 在学生の方 保護者の方へ 卒業生の方へ 外国人留学生の方へ 企業・一般の方へ アクセス 検索 -->

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